【シリーズ・ふるさと日立大使 Interview】橋 幸夫さん

ページID1007667  更新日 令和6年2月19日

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橋 幸夫/文化人

写真:インタビュー橋幸夫氏
好奇心を失わないことが”元気の源”

市では、日立市出身または日立市にゆかりがあり、芸能やスポーツなどさまざまな分野で活躍する方を「ふるさと日立大使」として委嘱しています。

このシリーズでは、大使の皆さんをお一人ずつクローズアップしてご紹介します。

今回ご登場いただくのは、長年にわたり歌謡界の大スターとして活躍され、今年5月に歌手活動を引退された橋幸夫さん。生涯の恩師である作曲家・𠮷田正氏とのエピソードや歌手活動引退後の活動などについて伺いました。

歌に興味がなかった少年時代

歌手になられたきっかけを教えてください。

意外に思われるかもしれませんが、そもそも僕は歌手になりたくてなったわけではないのです。僕は9人きょうだいの末っ子で、僕が小学校に上がった頃から、歌が大好きな母を中心に家族で歌謡曲を歌う習慣があったんです。夕食後にみんなで集まって長男から順番でいろんな歌を歌うんですよ。僕は歌に全然興味がなくて、うちは毎日毎日なんでこんなに歌っているんだろうと思っていました(笑)

母の勧めで歌謡教室に

小中学校時代、僕は格闘技をやっていた兄たちの影響を受け、空手や柔道、ボクシングを習っていました。中学校では空手仲間とよく遊んでいたところ、「不良グループと付き合っている」と担任の先生が母に連絡したことがきっかけで、心配した母が兄たちに相談して、僕を作曲家・遠藤実先生の歌謡教室に通わせることにしたんです。当時、うちの隣が床屋さんで、そこの職人さんが「遠藤実歌謡教室」の生徒だったので、歌が大好きな母は、「これだ!」とひらめいたのでしょう。僕は強引にレッスンを受けさせられることになったのですが、母に反発することはできませんでした。これが最初の師、遠藤実先生との出会いと歌手になるきっかけです。

一度も休まなかった歌のレッスン

遠藤先生のレッスンは週2回。学校から帰るとすぐに教室に行かなければならず、空手仲間と遊ぶ時間は完全になくなりました。母の作戦は大成功です(笑) 中学2年から3年間、一度も休まず歌謡教室に通いました。歌が好きというよりも、母が喜ぶからという理由からです。

どのようなきっかけで、𠮷田正先生の門下生になられたのですか?

高校1年の時、遠藤先生から「君はスターになる素質がある」と言われ、歌手デビューのお話をいただいたのですが、実はこの時点でも僕は歌手になる気はありませんでした。でも、遠藤先生も熱心に指導してくださるし、何より母を始め家族の期待を一身に背負っていましたから、「歌手になりたくない」とは言えず、遠藤先生が専属となっている日本コロムビアのオーディションを受けることになったんです。

遠藤実氏の尽力で𠮷田門下生に

オーディションでは、村田英雄さんの「蟹工船」と「人生劇場」の2曲を歌ったのですが、ディレクターに「若すぎる」と言われ、不合格になってしまいました。遠藤先生はカンカンに怒っていましたが、ライバル会社であるはずの日本ビクターへの橋渡しに尽力してくださいました。当時のヒットメーカー、作曲家の𠮷田正先生に僕のことを託してくださったんです。そうして、僕は𠮷田先生の門下生となり、高校2年生だった17歳のときに「潮来笠」でデビューしました。

歌手として全力で駆け抜けてきた

デビュー曲「潮来笠」が大ヒットし、その後の数年はとにかく無我夢中の状態。生活が一変し、高校にもほとんど通学できませんでした。でも、普通の若者には経験できない社会勉強をたくさんさせてもらったと思っています。自分の意思ではなく、母が引いてくれたレールに乗って歌手になった僕ですが、プロになったからには自分ができる全ての努力をして、63年間一生懸命やってきました。

写真:ラストコンサート(1)
80歳の誕生日に開催されたラストコンサート(写真提供:夢グループ)

笑顔でファンの声援に応える橋さん

𠮷田先生との思い出やエピソードをお聞かせください。

𠮷田先生は厳しくも優しい方でした。レッスン中は、「譜面に忠実に歌わなきゃダメだ!」と厳しかったですが、「橋君、歌は上手く歌おうと思った瞬間からダメになる。上手く歌わなくてもいいから心で歌えよ。」と、いつも声をかけてくれたことが忘れられないです。あとは、20歳になったばかりの頃、京都祇園に連れて行ってくれて、お酒の飲み方なんかも教えてくれたりしましたね(笑)

𠮷田先生はまさに「人生の師」。若かった僕に芸能界でのマナーや生きることの大切さを教えてくださいました。先生がいなかったら、現在の僕はいなかったと思います。

写真:ラストコンサート(2)
80歳の誕生日に開催されたラストコンサート(写真提供:夢グループ):歌手活動の思い出を語る橋さん

歌手活動引退後は「書画」の道へ

現在、京都芸術大学で学ばれている橋さん。チャレンジし続ける、そのバイタリティーの源は?

昨年、歌手活動を引退すると決断した際に、次の職業を考えないといけないなと思ったんです。そして、新たな人生のスタートとして選んだのが、「書画」の世界。書道は若い頃から続けていたし、小学校の頃から絵を描くことも大好きで、僕がずっとやりたかったことの二つでしたから。僕の書道の先生が京都芸大の講師で、その先生の勧めもあって通信教育部書画コースに入学することにしたんです。これまで忙しかったので、大学ではじっくり学んで、興味があることをどんどんやってみたい。好奇心を失わないことが“元気の源”ですね。

※書画 書道と日本画、水墨画のこと

今後の活動の目標は?

歌の道にピリオドを打った今、アーティストからアートに。書画の道を究めていきたいです。“書はアート”。僕が感じる書画の世界を作品にして、全国で個展を開催したいと思っています。

ふるさと日立大使として、今後はどのような活動をしていきたいですか?

日立市は我が恩師、𠮷田正先生の生誕の地ですから、何かお役に立つことがあればといつも思っています。また、来年は僕が名誉館長を務める𠮷田正音楽記念館が開館20周年を迎えるので、例えば𠮷田メロディーや記念館を題材にした書画を描いてお披露目したらどうかなと、皆さんに喜んでいただけるようなアイデアを練っているところです。

写真:入館者100万人達成
𠮷田正音楽記念館入館者100万人セレモニー

日立市を全力で応援!

最後に、日立市民へのメッセージをお願いします。

日立市は水戸光圀公も称えた日の出が美しい自然豊かなまち、ものづくりの分野で世界に知られるまち、そして偉大な作曲家・𠮷田正を生んだまち…と、こんなに魅力が詰まったところは日本全国でもそうそうない。日立市民の皆さんには、ぜひ誇りを持っていただきたいと思います。僕も全力で応援していきますよ!

写真:ふるさと日立大使委嘱式
ふるさと日立大使委嘱式

Profile

橋 幸夫

東京都荒川区出身。

日立市出身の作曲家・𠮷田正氏の門下生として、1960年、「潮来笠」でデビュー。同曲は爆発的大ヒットとなり、第1回日本レコード大賞新人賞を受賞。

1962年、吉永小百合さんとデュエットした「いつでも夢を」、1966年「霧氷」で日本レコード大賞を二度受賞するなど、歌謡史に残る数々のヒット曲を歌う。

2012年、𠮷田正音楽記念館の名誉館長に就任。

80歳の誕生日を迎えた2023年5月3日、63年にわたる歌手活動を引退。

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