令和7年5月「共創コラム(市全体推進)」


共創プロジェクトへの想い

4月1日付の人事異動により、課から部のレベルに組織強化された「共創プロジェクト推進本部」の部長に就任いたしました。
昨年は、産業経済部長として「グリーン産業都市の構築」のテーマ長を担当し、日立製作所とともに次世代未来都市実現の鍵を握る「新産業の創出」や「異次元の生産性向上」、「グリーンエネルギーの融通」などの議論検討を進めて参りましたが、今年度は、他の2つのテーマ「デジタル健康・医療・介護の推進」「公共交通のスマート化」も含め、本市の産業の力と日立製作所のデジタルの力を融合し、真に暮らしやすく、生き生きと安心して生活できる、便利でスマートな都市環境の実現に力を尽くしてまいります。

実は私の父は日立製作所の溶接工でありました。
幼少の頃、父は出張が多く、たまに帰宅する時のお土産が楽しみでした。名古屋で買ってきたという「トランシーバー」は、思い出す中で最高のお土産ですが、親父がどこに出張し仕事をしていたかは知ることもなく、それを知ったのは、市役所に入所して4年目、産業経済部の企業立地課に異動してからです。お恥ずかしい話ですが、産業振興の現場に身を置き初めて、父の仕事に興味を持ったわけです。

父は、黒四ダムや御母衣ダムといった水力発電所や、敦賀や浜岡の原子力発電所に長期出張し、配管などの溶接作業に従事していたようで、確かに幼少期に住んでいた「上の内社宅」の縁側には、所々に穴が開いた作業服が干されていました。それこそが溶接工の勲章、誇りであったのだと思いますし、今思えば、日立市とは、そうした技術技能に支えられた「ものづくりのまち」だということを改めて感じます。

昭和40年代、日本は高度経済成長期で、休日は日曜日だけの時代でした。市内の至る所に日立製作所が設置した「供給所」は、多くの市民生活を支えるお店として機能し、普段の買い物はほとんど済んでしまう便利さがありました。その半面、衣服や靴、食器、時計などの買い物や、映画などの娯楽には、皆が挙って銀座通りへと出掛けるため、日曜日の銀座通りのにぎわいは、東京の銀座に負けない様子であったことを記憶しています。この活気あふれる様子こそが、私の日立市に対する原風景であります。

幸せなことに25歳で産業経済部企業立地課に異動して以来、34年間続けて、産業振興の最前線で仕事に従事しましたが、その原動力になりましたのは、この原風景、「往時のにぎわい」を少しでも取り戻したいとの思いでありました。

この間、樫村市長、吉成市長、小川市長の歴代市長の下、何度もチャンスをいただき、多くの事業を進めることができました。日立地区産業支援センターの立ち上げと他市に先駆けた事業者支援施策の展開、撤退したイトーヨーカドー日立店に代わる「ヒタチエ」のオープンなどに奮闘してきた34年間の経験と、人との出会いやつながりは私のかけがえのない財産でありますが、今は、本市の未来を託す「共創プロジェクト」を前に進めるための準備期間であったようにも感じております。プロジェクトの成功は、まさに私の願い、本市の「往時のにぎわい」を取り戻すことにつながるものと信じております。

本格始動して二年目となる共創プロジェクトは、組織を改め、多くの職員が配置されました。メンバーのみならず、市役所、日立製作所の総力を結集し、プロジェクトを推進してまいりますので、市民の皆様にも御理解と御協力を賜りますようお願いいたします。